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祭壇と信仰

私たち「ピンクガネーシャ同胞団」の考えでは、祭壇について特別な取り決めはありません。各々が好きな様式で行うのがベストであると考えます。

これは儀式を含め信仰に関ること全てにおいて、すべからく個人的なものであるべきだという考えからです。

不思議なことなのですが、どの宗教でも自らが崇める神の祭壇を用意し重要視しています。これはある意味、ヒトが最も落ち着く行動様式なのかもしれません。祭壇を作ることは、精神的拠り所を構築するという意味合いもありますが、祈りをする場所として非常に効果が高いことの証だとも思っています。

宗教によっては、偶像崇拝を禁止している場合があります。偶像が人々の依頼心を助長させ、俗物的に堕落するというのがその主な理由です。

PINKGANESHA06.jpg

この件について管理人の考えを述べてみます。

管理人は「現実世界は、本質的には(なかなか動かないけども)夢と同じような類」であると考えています。

実際、自分の脳内で見る外界は、眼球の水晶体を通じて網膜に平面的に投影された情報を電子パルスに変換し、脳に送られ再現した映像ににすぎません。一度、2Dという平面情報に劣化した情報を何らかのメカニズムにより、3D立体情報として再現して見ているわけです。

このことからハッキリ言えることは、「見えている世界」とは、実は自分の意識というスクリーンに投影した虚像に過ぎないということです。つまり、(脳内で見える世界に限っていえば)外界は自分の一部分でもあるわけです。

ですから、自分の身近な外界に祭壇を構築することは、即ち自分の意識内に祭壇を築くことにも他ならりません。別にガネーシャ神に限らず、自分が共感できるものを崇めればいいのです。

ただ、祭壇を構築して神を崇める場合のポイントは、「それが楽しいかどうか」です。

仏教ではこのことを「帰依」と表現していますが、この「帰依」もその崇める神をどのくらい敬愛し楽しめるかが重要だと思います。嫌や嫌ややってたのでは、祈りの効果は薄いのではないでしょうか。

インドの20世紀最大の聖者マハリシは、普通世俗に仕事を持つ一般的な人の場合、高次の世界に通じる最も簡単な道はパクティ・ヨガであり、「献身」と「自己放棄としての愛」の道であると説いています。また、R・シュタイナーも「認識の小道」のなかで、「尊敬」こそが高次世界(超感覚的世界)に通じる道であると述べています。

管理人は、高次世界に通じた時に「宗教的歓喜」(名前は気に入らないが。。。)が起きるのだと考えています。高次世界は存在の大元であり、「至福意識=歓びの世界」である為、そこに通じた場合、必ず「歓喜」がもたらされるはずです。ですから、「宗教的高揚」はヒトに予めプリセットされたひとつの機能だと捉えば、信仰を持つ、即ち、崇める神を持つことは、この高次世界へ到達する近道だと考えています。

「歓喜」こそが、人生に良きものをもたらすのです。
最近では、「引寄せの法則」として有名ですね。

ただ、この機能を活性化する術を宗教団体という組織が持ち合わせているのですが、会を脱退したい人に対して「永遠の命を得られない」「六道無限地獄に落ちる」というような脅迫観念を植えつけることで、教団組織の維持を図っているというのが実情です。

日本では、ここが宗教の嫌われる点ではないでしょうか。

実際、教団の上層部ほどその宗教の教義を信じておらず、下部の信者よりも信仰心が決して篤いとはいえず、教団組織運営にばかり頭を悩ましている姿がそこにはあります。

世の中には、大日如来、不動明王、お稲荷さん、カーリー、シヴァ、天照大神、スサノウ尊、サマートクマラ.....等、数え切れない程の様々な神様がいらっしゃいますが、本当に存在するかどうかは問題ではなく(否定も肯定も証明などは出来ない)、その個性的な神の概念を自己の中に取り入れて、どれだけ楽しめ実生活に役立たせることができるかいう点だけが、個人の信仰の全てでないかと思うのです。

信仰 = 喜びを得ること = 高次元世界の流れの受け止め という図式です。

本来、信仰に「脅し」など必要ないのです。
脅しがあるのは、他に隠された理由(組織維持・拡大)があるからです。

ですから、既存の宗教団体から一歩身を引いた自由な状態で崇める神を決める時、ガネーシャ神はその姿や性格からいっても、とてもユニークで愛すべき存在であり、また優れた資質を持っていると思うのです。

これが管理人がガネーシャに惹かれる理由です。
(あと、お下がりの供物のスイーツが目当てという点も大きい・笑)

ただ、神を崇める場合、注意しないといけないのは、一般に考えられているように、
「神>>>人間」ではないという点です。

旧約聖書のモーゼが紅海を割る場合にも神に命令を下しているように、本来、人は神に命令を下すべきものなのです。お願いした後にまた更にお願いするように、こちらから一方的に叶えたい内容を次々と指示すべき存在なのです。

つまり、「人間>>>神」という図式です。

この現実世界に顕現する「神」、つまり、言い切ってしまえば、あるひとつのパワーなり象徴は、本来、人の下に付くべきであり、この「神」を人間の上に置き崇めさせることは、実は宗教団体の上層部が人々を支配下に置く巧妙な手段でもあるのです。「神はこういった」とか都合の良いことを述べることで末端信者が素直にその指示に従うことは、上層部にとって、まるで自分が神にでもなったような替え難き魅力があるのです。

ここに「神」に翻弄される人々の悲劇があるのです。
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